母のこと

今日、母の7回忌法要があります。もう6年前も経ったのかーという感じ。
この6年間、母のことを忘れた日はない、っていうとウソになるんだけど、6年前のことは今でもはっきり覚えていて、去年の出来事は思い出せなくても6年前のことはすごく鮮明に覚えてるなーと。

6年前、2007年の正月気分も抜けた頃、実家にいる弟から電話がありました。「オカンが入院した」と。
えっ、でも正月に帰省した時は元気そうだったじゃん、って。
なんでも正月が明けたくらいから体調が悪くなり、病院に行ったらそのまま入院となったんだと。

母は元々血液の病気を持っていて、僕が小学生の時にも入院していた時期がありました。
その後は通院はしていたようなんだけど、特に生活に支障がでるようなこともなく、元気に暮らしてました。
その病気自体は完治することはなく、病気と付き合いながらいきていくほかない、ということを母は言ってました。

その病気が悪化した、というか生活に支障をきたすレベルになった、ということのようでした。

その時点ではイマイチ事の重大さに気付いていなかったため、しばらく安静にしてればすぐに退院できるんだろう。程度に考えていました。
その後も弟からは定期的に連絡をもらい、どうもこれは楽観視してる場合じゃなさそうだぞということに気付き、週末、新幹線で帰省しお見舞いがてら状況を確かめにいきました。

病院での母は、ベッドの上で比較的元気そうに迎えてくれました。本人も「意外と元気そうでしょ?」とおどけてみたりして。「わざわざ遠くからゴメンネ」とか言われたりして。
病院での入院生活が退屈だろうと思って、塗り絵と色鉛筆とクロスワードパズルの本とNintendoDSと脳トレを差し入れにもっていきました。ひとりで退屈して寂しがってたらかわいそうだなと思って。

その後、待合室のようなところで主治医の先生から状況の説明を受けました。

母は元々白血球が少なく、普段でも普通の人であれば立っていられないほどだということ。
ただ母はその状況に体が適応しているので普通に動くことができていること。
今は白血球が自分で作り出せないので輸血で白血球を足していること。
骨髄移植のようなもので、自分で白血球を作り出せるようになる可能性があること。
そのために骨髄の型を研究機関で調べてもらっていること。
白血球が少なくなると出血がしやすく、出血すると血が止まらなくなること。
病院に運び込まれたとき、脳での出血が確認できたこと。
ただ、その時はなぜか脳の出血は止まって命に別状がなかったこと。

電話での弟の拙い説明ではよく分からなかったことを根掘り葉掘り質問しまくりました。
先生も素人にも分かる言葉で、できる限り正確に理解できるように説明してくれました。いい先生でよかったなと思いました。

その後、母の病室でしばらく過ごし、明日もまた来るね、といって一旦実家に引き上げました。

翌日は朝から病室を訪ねると母が寝息を立てて寝ていたので、起こすのも悪いなということで、みんなで待合室で雑談してました。
すると、病室の方が騒がしくなり、母がベットごと病室から運びだされていきました。そのまま地下のMRIの部屋に運び込まれました。その際に医者や看護婦さんの会話から聞こえてきたのは心肺停止状態だと。

MRIから出ると、今度は個室の病室に移りました。すると主治医の先生が手動の人工呼吸器をもって母に呼吸を送り込んでいました。
この日別の用事で見舞いに来ていなかった父が、病院に到着すると、主治医の先生が父に「もう目を覚ますことはない」と、「あとは人工呼吸器をつけて心臓が止まるのを待つだけ」だと告げました。

たまたまお見舞いにきてくれていた母の兄妹達(僕にとっての伯父さん、伯母さん)は呆然としてました。
でもこの時点で泣いていたのは僕だけだったと思う。みんなもしかしたら何らかの覚悟をもっていたのかもしれない。なんの覚悟もなくここに来ていたのは僕だけだったのかもしれない、とこのとき思いました。

人工呼吸器でどれくらい生きられるか分からないから、一旦自宅に帰ることにしました。
帰りの新幹線の中ではずっと母のことだけ考えてました。
もしかして、僕が見舞いにくるまで頑張って生きてくれてたんじゃじゃいかと、最後にひと目会うチャンスを僕にくれるために死ぬのを待ってくれてたんじゃないかと、なにかそんな気がして、もっと早く見舞いにこればよかったとか、昨日もっと母のそばにいればよかったとか、そんな小さな後悔をしていました。

それから1週間後、弟から電話があり「オカンが息を引き取った」と。

実家にいくと、仏壇の前に母が寝ていました。
明日が通夜で、明後日が告別式。段取りはすべて父が仕切っていましたが、喪主は僕がやることになっていました。
その日の晩は母のいる部屋でみんなですごして、翌日の夕方に葬儀場に移動しました。

なぜかここらアタリから、僕と弟が非常に感傷的になっていて、言い方は悪いけど、ずっとメソメソ泣いてました。2人とも30越えたいいオッサンなのに。
やっと心が落ち着いても、ちょっとしたキッカケで涙が込み上げてきて、涙を我慢するとこもなく、溢れるがままに泣いてました。

通夜が終わって、葬儀場の控え室に母を移動して僕らもそこでくつろいで一晩過ごすんですが、ちょいちょい父が母の棺の窓をあけて顔を眺めて、バレないように後ろを向いて涙を拭いたりして。バレないようにムリだから、バレバレだから。んで、そんなん見ると僕らも泣けてくるから。って、弟と外に泣きにいったりして。
大人になってからこんなに泣いたのは初めてでした。いや、子どもの頃を入れても一番泣いたかもしれない、ってくらい通夜の夜は泣きました。

父は気丈に振る舞っていたけど、それが返って痛々しくてなにかツライ気持ちになりました。思いっきり泣いたっていいんだぞ、と。
僕らが引くくらい泣いてくれたら、逆に僕らが泣かずに済んだかもしれないのに。

この時の涙の感情は、「悲しい」というより「寂しい」という感じだと思います。
心にぽっかりと穴があくというのはこういうことなのかなーと。

弔電も何通かいただいていて、告別式の中で紹介するコーナーがあるらしく、どういう順番で読みましょうか。みたいなことを葬儀屋さんが相談してきました。
国会議員の政治家のセンセからも形式張った弔電が届いていて、こういう場合、政治家のセンセから紹介するのが礼儀らしいんですが、これは母の告別式で喪主は僕なんでそこんとこは断固として仲のよかった友達から紹介してくれ、会ったとこもない政治家のセンセは最後にしてくれ。とお願いしました。
やりたい放題です。

通夜の夜に散々泣いたからなのか、告別式ではなにかスッキリとした気分になってました。
告別式の間、ずっと祭壇に置かれた母の遺影を眺めてました。穏やかに笑っていい顔してんなーとか思いながら。

本来だったら参列してくれて焼香を揚げてくれている来客の方のほうを向いてお辞儀とかするべきなんですが、これで母に会える最後なんだから好きにやらせてもらおう、という気持ちになってました。
だから体ごと祭壇の方を向けて、なので参列者の皆さんには背中を向けて、遺影を眺めていると心が落ち着きました。

告別式の最後に喪主の挨拶をすることになっていて、通夜の時点では泣いて言葉にならないんじゃないかと心配していたんですが、非常にすっきりした気持ちで、落ち着いて通夜の間に考えた挨拶文を読みました。隣にたった弟は喪主の挨拶の間もクシャクシャに泣いていて、あとで「裏切り者」呼ばわりされました。

葬儀のあともしばらくは、楽しいことがあっても、おいしいものを食べても、なにか罪悪感みたいなものを感じる時期がありました。
母はもうこの世にいないんだと、もう楽しいことないし、おいしいものも食べられないのに、僕だけ楽しんでいいんだろうか、と。僕だけ生きていていいんだろうか、と。
自分でもすごく歪んだ考え方であることは頭では理解していたものの、心のどこかでそういった感覚を感じていました。
その感覚は次第に薄れていきましたが。

よく「親が生きてるうちに親孝行しないと後悔するぞ」という言葉を聞きますが、これは半分は正しいんだけど、半分はウソだと思います。
親が死んだとき、親孝行してなければ「もっと親孝行すればよかった」って後悔する、という意味では正しいんだけど、この言葉には「生きてるうちに親孝行すれば後悔しないぞ」という意味が含まれていると思うんだけど、そんなことはないです。

僕自身、十分に親孝行できたわけじゃないけど、でも「十分に親孝行」なんてこと自体がありえないんじゃないかと。
生前、どんなに親孝行をしたとしても、「あのときもっと優しくすればよかった」とか「どうしてあのとき冷たくしたんだろう」とか「あのときヒドイこといったなあ」とか、そんな具体的なシーンを思い出して「もっと優しくできた」、「もっと喜ばせることができた」とか思っちゃうもんじゃないかと。

だから、生きてるうちにたくさん親孝行するべきだし、できるかぎり優しく接するべきだけど、でも親だから、家族だから、気心が知れてるから、他人には絶対にしないような冷たい態度や、ヒドイことを言ったりとかもあると思う。
でもそれ自体が、信頼の証なのかもしれないなあという気もしてます。無自覚に「愛されてる」し、「愛してる」という確証があるから、安心して冷たい態度を取っちゃうのかもなあと。

あれから6年経って、今も父は元気です。
たまに実家に帰省すると、なにかとウザイことを言ってくるし、頑固で自分勝手なところもあるけど、できる限り親孝行して、できる限り優しく接して、でも安心して遠慮なく罵りあおうと思います。愛を込めて。