人に親切にされて当たり前と思うな。だが人に親切にするのは当たり前だ。

なんか考えさせられるブログを読んだので脊髄反射でエントリー書きます。
このブログは普段「ですます調」で書いてるんだけど、本エントリーはそれだど非常にまどろっこしい言い回しになるので「である調」でいきます。

肩身の狭い思いを強いてはいけない(手の中で膨らむ)

健康で、誰の手を借りる必要もない大人とバスに乗り合わせても、この人は謙虚、この人は横柄だと判断したりしないのに、こと特別に周囲の助けや理解を必要とする人に対して、それに値するかを探るように、謙虚か横柄かと無意識に判断する。まずはそういうケチな考え方をやめよう。私たちが頭では正しいと考える社会の空気を作るために、他者により寛大になるのと同時に、自分の中の排他的な無意識に自覚的になる必要がある。

ブログを読んで、「そうだよなー」と同意する一方で、なにかちょっとだけ違和感があって。なんだろう、このモヤモヤって思った。

これってつまり、周りの人は掛けられた迷惑に怒るんじゃなくて、迷惑を掛けて気にしない態度だったり、申し訳ないと思っていないことに腹をたててるってことなんじゃないのかしら。

話しは変わるけど、以前から以下の言葉がネットで流れてた。

日本の親は、「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えるが、インドでは、「お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそう。前者は、息苦しさを、後者には、ホッとするものを感じる。誰しも迷惑をかけずに生きられるわけがない。

これを初めて見た時も、インド人いいこと言うなー。さすが「0」を発見した国の人は言うことが違うなー、なんて思ったりした。
だけど、これも日本の親の教えが根本的に間違ってるとも思えなかった。

で、表題の言葉に出会って、なにかすごくシックリきた。

人に親切にされて当たり前と思うな。だが人に親切にするのは当たり前だ。

この言葉をどこで見たのか忘れちゃったけど、もしかしたら細かい言い回しは違ってるかもしれないけど、こんなニュアンスの言葉だった。

この言葉は矛盾に満ちている。だけど、この矛盾はどちらも正しくて、すごくやさしい言葉だと思った。

また話しは変わるけど、「ありがとう」の反対の言葉ってなにかという問いかけがあって、それは「当たり前」なんだって。
「感謝」の対局に「当然」が存在している。やってもらって当然、親切にしてもらって当然、与えてもらって当然、こう考えていたら感謝の想いなんて湧いてこない。

親切にされた時、特別なことをしてもらったという想いがあるから感謝が生まれる。でも『親切』が特別なものだと、人に親切にすることも特別なことになっていまう。わざわざ人に親切にしなくなるかもしれないし、親切にしたときには感謝されることを期待してしまうことになる。
でも、そうじゃない。与えてもらうときには感謝の念を抱き、与えるときには当然と思って行動する。カッコイイ、すごくカッコイイ。

で、「迷惑」にも同じことが言えるんじゃないかと思う。

インドの教えは(日本の教えももちろん)片手落ちなのだ。
「人に迷惑を掛けないように生きなさい。それでも人に迷惑をかけてしまうのだから、人のことも許してあげなさい」と。
これじゃないと人の迷惑に寛容になる一方で、人に迷惑をかけてもなんとも思わない大人になってしまう。

そして、今回のブログを読んで分かったのだけど、我々は迷惑に関しては十分に寛容なのだ。
掛けられた迷惑に対して、腹を立てるワケではないのだ。(いや、腹を立てることもあるけど)
多くの場合、その人がどういう想いでいるか、が受け手に多大な影響を与えている。直接的な迷惑の度合いではなく、どんな想いで迷惑を掛けなければいけない状況なのか、に受け手の関心事は移っている、ということなんだと思う。

それを「ケチな考え方」と言われればそうなのかもしれないけど、社会的な思考だとも思う。
人に迷惑をかけないように生きたいと思いながらも不本意ながら迷惑をかけてしまう、そういう人に対して世の中は寛容なのだ。だって、迷惑をかけずに生きることなんてできないのだから。

また話しは変わるんだけど、子供の頃「ゴメンで済んだら警察いらない」ってことを言っていたけど、法を犯さない限り、世の中は心を込めて「ゴメン」と言えば許してもらえるのだと思う。

僕は、こんな世の中はなかなかいいじゃないか、って思ってる。